THEATER OF KISS


櫻澤は覚醒剤所持で逮捕されここに来た青年だった。
多くの他の逮捕者とは違い大人しく、行儀も良かった。
聞けば意外にも、若者にかなり人気のあった有名なロック
バンドのドラマーというものをしていたらしい。
それがどう道を誤ったのか、ここにいた。
 
だが、そんな話はここではありきたりなことだった。
外で何をしていたかということと、ここに留置されたという事実
は常に無関係である。
ここから先は、今までいた社会とはまた別の世界だ。
 
そして私が見る限り、そのことについて櫻澤は他の誰よりも
身にしみて感じているようであった。
一日のスケジュールを淡々とこなし、同室の者たちとはなかな
か打ち解けようとはしない。
決められたことは完璧に処理するが、それ以上のことはしよう
としない。
 
時々思い出したかのように両手で空を切るような格好をする
が、自嘲気味に微笑むとすぐにやめ、後は殻に閉じこもった
ようにひとりでいた。
 
留置当初の櫻澤は、常に眼に精彩がなかった。
彼の場合、最初のうちは薬の影響のため瞳孔が開ききり、目
が淀んだ感じではあった。が、幸いにそれほど中毒が酷くな
かったため安定剤の処方と矯正教育ですぐに症状は改善
の徴候を見せた。。
 
しかし、虚ろな眼はそのままだった。
 
面会人に対しても彼の反応はあまり変化はしなかった。
ここは、弁護士の他には日に一度の面会しか許されていない。
弁護士以外は全て肉親によるもので、面会に立ち会った看守
の話では、ただ面会人に謝るばかりの15分であるということ
だった。
 
櫻澤が留置され1ヶ月近く経った日、留置人が多かったその日
は看守の手が空かず、たまたま私が面会の立会人となった。
面会人は櫻澤の友人ということらしい。
友人が面会にくるというのは初めてのことだった。
正直、あの人当たりの悪い櫻澤に友人がいたということに私
は驚いた。
櫻澤に面会人の名前を告げると、いつもどんなことに対しても
感情を表に出さずにいた彼が非常に驚き、苦悶の表情をした。
 
普段見たことのない彼に、私は思わず「面会を断ることもでき
る」と言ったのだが、彼からはそれ以上何の返答もなかった。
 
私は櫻澤を面会室に連れていった。
櫻澤はなかなか面会室の扉を開けようとしなかった。
 
「櫻澤、入りなさい」
 
私が即すと手を扉に掛けはするが、すぐに離してしまう。
5分経ち、これ以上のことは規定範囲ではないと判断した私が
面会を切り上げようとしたとき、櫻澤は言った。
 
「部長さん、私はこの人に会わなければならないんです。会っ
 て、無様な今の自分を見せるべきなんです」
 
私は櫻澤の為にそれから5分を待った。
しかし、櫻澤はなかなか部屋に入ることができないでいた。
 
「櫻澤、今日はもう諦めなさい。 また次の機会にしなさい。
 それに、これ以上面会人をお待たせするのも気の毒だろう」
 
私のその言葉に櫻澤は急に扉を勢いよく開け、部屋に入っ
ていった。
私も慌てて後に続く。
 
遮断ガラスの向こうの面会人はじっとそこに座って待っていた。
小柄な男だが驚くほど整った容姿をしていた。
たぶん櫻澤が所属していたバンドのメンバーの一人なのだろう
と私は判断した。
目立たない格好であるのに、一般人とは明らかに違う雰囲気を
彼は醸し出していた。
 
彼は、我々が部屋に入ると俯いていた顔を上げた。
そして、櫻澤の姿を見た瞬間、ほんの一瞬だったが泣き顔なの
か笑い顔なのか分からない複雑な顔をした。
きっと会えないとでも思っていたのだろうと私は思った。
 
部屋に入った櫻澤はまたその場から動こうとはしなかった。
動きたくても動けないというより、一生懸命そこに踏みとどまって
でもいるかのように見えた。
声も出せずにいる。
面会室ではよくある光景だ。
面会時間はあと5分ほど。
私は櫻澤の好きに任せることにし、面会に来た気の毒な友人に
視線を移した。
 
申請資料によると彼は一人で来たようだ。
ここに一人で面会にくるのはかなり勇気がいっただろう。
同じバンド仲間だとしたら、来るにはいろいろと大変だったはず
である。
 
彼は先ほどの複雑な表情からは一変し、力強い瞳で櫻澤のこ
とを見つめていた。
そして、櫻澤に多くのことを語りたそうであった。
変な話だが、私は男に対して美しいという形容詞が当てはまる
人物に初めて会ったと思った。
こんなところに長年勤続しているせいか、汚れたものやどうにも
ならないものに免疫ができるほど接してきた私には、彼の何に
も犯しきれないと感じられる美しさは鮮烈だった。
 
その時の私と櫻澤は、ガラス板一枚の隔たりに果てしない距離
のようなものを彼に感じていたのだと思う。
だが、すぐにその感覚は消えた。
彼がゆっくりと立ち上がった。
 
彼が動いて初めて、私は彼が生身の人間だと思えた。
彼はそして、左手を持ち上げガラスに押し当て、次に右手を同じ
ように押し当てた。
その間、相変わらず力強い瞳で櫻澤を見続ける。
 
その時、それまで身動きひとつできなかった櫻澤は、軽くため息
をつくとふらふらと彼のほうに歩み寄っていった。
私にはその櫻澤の姿が、抗うことを諦めて彼に近寄っていくよう
に見えた。
実際、ガラス向こうの彼の匂い立つような美しさに、私でさえも息
を飲み、間近に寄って彼を見てみたいと思ったほどだ。
彼に近寄る櫻澤は、まるで彼に獲り込まれていく動物のようで
あった。
 
弱々しく、自分の全てを握られているような。
 
彼の前に立つと櫻澤は、ガラスに押し当てられた彼の両手をうや
うやしく取り上げるように自分の両手と重ね合わせた。
その様子は、何かの儀式のようだった。
その間、彼は櫻澤から一時も視線を外そうとはしない。
櫻澤はそのまま凍てついてしまうのではないかと思うような視線
だった。
 
彼らはしばらくそのままでいた。
お互いの手の温もりがガラス板を通して感じられるのではないか
と私が思ったその刹那に、櫻澤のことを終始きつい眼差しで捕ら
えていた彼のくちびるが緩み、何か言葉を紡いだ。
 
それまでただの一言も発しなかった彼のくちびるは、「さくら」と確
かに動いたと思う。
「さくら」と動いたくちびるはそのまま閉じられず、氷のような冷た
さで櫻澤のことを貫いていた乾いた彼の瞳も、その時や、とろりと
した潤いまでにじみ出し、うっとりという言葉が似合うほどだった。
私はそれを綺麗だと思わずにはいられなかった。
 
櫻澤の身体は自然とその半開のくちびるに吸い寄せられていった。
彼より頭一つ分背の高い櫻澤なのだが、その姿はまるで彼に平伏
しているようであった。
 
平伏する櫻澤を、彼は再び氷のような瞳で見たかと思うと櫻澤から
離れ、身を翻し、あっという間に面会室から出て行ってしまった。
 
あまりのあっけなさに私はしばらく呆然と、面会室で一人取り残され
た櫻澤の後ろ姿を見ていた。
 
はっとして時計を見る。
面会を始めて20分が経過していた。
予定より5分の超過である。
櫻澤は私のほうに振り向き、静かに私を見下ろしていた。
 
「ありがとうございます、早川部長さん」
 
櫻澤ははっきりとした口調で私にそう言った。
そしてこうも言った。
 
「早川さん、私はもう一度信じてみようと思うんです」
 
櫻澤が何を信じようと思ったのか私は聞きそびれてしまった。
自分のことなのか。
来てくれた友人のことなのか。
もっと他のことなのか。
 
何にしろ、櫻澤がその日を境に明らかに変わったことは事実だ。
私は虚しくなった。
私たちがここで彼らにしていることは一体何なのだろうか?
結局櫻澤はその数日後、初犯であったことと個人使用目的の
(譲渡でなく)違法薬物所持であったため、判決が出るまで保護
観察下と矯正施設管理下の条件付で仮釈となった。
 
あれから数年経った今でも時々思い出す。
 
「もう一度信じる」
 
そう言った時の櫻澤の精気に溢れる声を。
焦点の定まった目でギリッと私を見た櫻澤の顔を。
 
そして、
あの、一瞬にして二人を静かに繋げたくちづけも。
 
07.09.25

基本はSH6
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