しかし、
秀は今、後部席にキャンプ用品を大量に積んだ四輪駆動車に揺られ、
長瀞の上流へと向かっている。
あの日、昼飯の食材を買って戻ってきたナナさんは、
余計なものまで引連れて帰ってきた。
「ただいま」というナナさんの声で、両手に大荷物の彼女を助けるため
リビングの扉のノブに秀人が手を伸ばすより先にそれは開いた。
そして、ナナさんではなく先に部屋に入ってきたのは長髪の、
あと僅かで秀の記憶回路から消え去る予定の男だった。
忘れかけていたのに一瞬にして蘇る。
家畜列車並に混雑した朝の地下鉄。
汗や体臭や安物の香水が入り交じったぬるい空気。
耳障りな意味のない会話。
苦手で雑多な雰囲気。
秀人の泣き顔。
次には、思いっきり眉間に皺を寄せていたために感じる額の皮膚の違和感。
だんだんとリフレインされているひとつの言葉が、
頭の中に占める割合が大きくなる。
どうしてこいつがここにいるんだ?
我に返って秀人を見る。
あの時ほとんど下を向いたままでいた秀人は、
完全に男の顔に憶えがなさそうだった。
でなければ、礼節わきまえた秀人が、
いくらなんでもこんな礼儀知らずな訪問の仕方をしたこの男に対してでさえも、
無言を通すはずがない。
多分今、一生懸命記憶を巡らせ、
ナナさんから発せられる言葉のほんの一欠片の情報を待っている。
「どうしたの、ひでちゃん? この方にジャケットをお借りしたんでしょう?」
「え?」
秀人は男の顔をしばらくしげしげと見上げ、それからナナさんが食材の代わ
りに持っていたクリーニングの透明カバーの中にそのジャケットを見つける。
「あ・・」
秀人の耳が紅く染まって俯いたのは色っぽいのだが、
染まった理由が秀には気に入らなかった。
シャーペン咥えてこっちを見ている馬鹿5人衆の間抜け面同様に。
「あの時は・・・・」
「地下鉄の空調で気分の悪くなった秀人に、
ジャケットをお貸しくださってありがとうございました」
秀は、俯きながら礼を述べようとする秀人の前に割り込み、
男を睨みつけながら思いっきり棒読みの台詞を吐いた。
「あ〜、いやいや。 あの後体調はどうだったのかな?
私も地下鉄のアレには時々嫌な思いをするんだよ」
男は、礼儀知らずでも多少の勘は働くらしい。