ぼくの夏休み  灰×灰シリーズ 


それは夏休みに入って数日後に起こった。

夏休みに入ると秀人の周りには彼の宿題をやっつける手際よさに吊られ
家を訪れる級友で賑やかとなる。
秀人も放っておけばいいのに、無意識に慈悲深い彼を頼って寄ってくる
子羊どもを一人残らず救ってやるのだ。
折角学校が休みになって一日中秀人にひっついていられると思っている
秀(しゅう)は、朝っぱらからやってくるご学友たちのせいで秀人を独り占
めできず、そんな日は一言秀人に「お人好しだ」と言ってやりたいものの
今に始まったことではない秀人のソレに、迷惑だとも面倒だとも微塵も
思っていないような彼の穏やかさの前に声を呑み込む。

仕方がないのでここは大人しく、優しい秀人を尊重し、馬鹿な奴らには
渋々付き合い、早くに本日のノルマを達成させ、ナナさんのそこらの店
のランチに引けをとらない昼飯まで漁っていく厚顔な子羊どもを早く追っ
払うことに専念する。

それに、学友たちの目当てが秀人の宿題だけでなく、秀人本人だという
ことも秀はちゃんと知っている。
全く、馬鹿で身の程のわきまえ方を知らない奴らだと秀は思うのだが、
秀人を前に結局自分たちには高嶺の花だと毎回思い知らされ、何を期
待して来るのか知らないが、夕方肩を落として帰路に赴く彼らを見るの
は結構楽しく、気分のいいものなのだ。

しかし、こんなおぼっちゃま連中だけのほうがまだよかったのである。
本日の迷える馬鹿な5匹の子羊どもの栄養補給のためにと、ナナさん
はお昼の食材を買いに出掛けた。
10人は余裕で座につくことができるパーティ好きな母ご自慢のダイニン
グテーブルで、勉強させるというにはあまり意味を成さない夏休みの宿
題を処理していく秀と秀人と馬鹿5人。

夏休みの前半はこうして気怠く過ぎていくはずだった。





しかし、
秀は今、後部席にキャンプ用品を大量に積んだ四輪駆動車に揺られ、
長瀞の上流へと向かっている。
 
あの日、昼飯の食材を買って戻ってきたナナさんは、
余計なものまで
引連れて帰ってきた。
「ただいま」というナナさんの声で、両手に大荷物の彼女を助けるため
リビングの扉のノブに秀人が手を伸ばすより先にそれは開いた。
そして、ナナさんではなく先に部屋に入ってきたのは長髪の、
あと僅かで
秀の記憶回路から消え去る予定の男だった。
 
忘れかけていたのに一瞬にして蘇る。
家畜列車並に混雑した朝の地下鉄。
汗や体臭や安物の香水が入り交じったぬるい空気。
耳障りな意味のない会話。
苦手で雑多な雰囲気。
 
秀人の泣き顔。
 
次には、思いっきり眉間に皺を寄せていたために感じる額の皮膚の違和感。
だんだんとリフレインされているひとつの言葉が、
頭の中に占める割合が大
きくなる。
 
どうしてこいつがここにいるんだ?
 
 
 我に返って秀人を見る。
あの時ほとんど下を向いたままでいた秀人は、
完全に男の顔に憶えがなさそうだった。
でなければ、礼節わきまえた秀人が、
いくらなんでもこんな礼儀知らずな
訪問の仕方をしたこの男に対してでさえも、
無言を通すはずがない。
多分今、一生懸命記憶を巡らせ、
ナナさんから発せられる言葉のほんの一欠片の
情報を待っている。
 
「どうしたの、ひでちゃん? この方にジャケットをお借りしたんでしょう?」
「え?」
 
秀人は男の顔をしばらくしげしげと見上げ、それからナナさんが食材の代わ
りに持っていたクリーニングの透明カバーの中にそのジャケットを見つける。
 
「あ・・」
 
秀人の耳が紅く染まって俯いたのは色っぽいのだが、
染まった理由が秀には気に入らなかった。
シャーペン咥えてこっちを見ている馬鹿5人衆の間抜け面同様に。
 
「あの時は・・・・」
「地下鉄の空調で気分の悪くなった秀人に、
ジャケットをお貸しくださってありがとうございました」
 
秀は、俯きながら礼を述べようとする秀人の前に割り込み、
男を睨みつけながら思いっきり
棒読みの台詞を吐いた。
 
「あ〜、いやいや。 あの後体調はどうだったのかな? 
私も地下鉄のアレには時々
嫌な思いをするんだよ」
 
男は、礼儀知らずでも多少の勘は働くらしい。
 
 
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