そういうわけで今、秀は車中にいる。
車から河原に出たところで、
待ってましたとばかりに「あぶ」がたかり始めたからだ。
羽音をぶんぶんいわせて飛んでくる虫は、秀には恐怖の対象だ。
他の者は虫除けスプレーで害虫対策をすると、
テントを張りに車外へと出ていった。
秀はその何倍もの時間をかけて、丹念につま先からスプレーをかけ、
最後はキャップに充分染み込ませて車から出てきた。
「虫が怖くて出られない」
そんなことを級友に秀が言えるばずがない。
このことは彼らには教えていない事実だ。
だが、「我慢がならないほどに虫が嫌いだ」とは常々言ってある。
「嫌い」と「怖い」ではイメージが違う。
外ではペグの効かない河原で大きな石を利用してテントを張るコツを、
櫻澤が他の者たちに伝授している。
急用で来られなくなった屋代の兄の代わりに、
掘と小宮山の兄がその横でタープを張っていた。
この二人は秀人たちとは3つ歳が違う同じ学院大学の2年である。
皆とは顔見知り程度ではあるが、全く知らぬという仲ではない。
車から出た秀は、タープの下で鍋やらカセットコンロやらを出し、
簡易テーブルの上で夕食の準備に取り掛かかっている秀人の方へと
迷わずに向かっていく。
その姿を本日のテント張り最後の難関に取り掛かりながら、
櫻澤は横目で眺めていた。
「どうして秀君はテントを張りにこないのかなぁ?」
双子の級友たちが持って来たドームテントとは違い、
秀が選んだのは天然素材で居住性・静粛性に富んだロッジテントである。
居心地はいいが、その分重量があり扱いも難しく、
どちらかと言えば全く初心者には向かないものだった。
しかも6人用。
パッと広げて出来上がるようなドーム型とは反対に、
どちらかといえばキャンプ好きなファミリー向けの代物だ。
そして秀によると、これは秀と秀人の2人用らしい。
櫻澤が泊まることは拒否された。
どうして私が利用もしない、それも難儀なテントをたった1泊するためだけに
子供と一緒に汗流して建てなくちゃならんのだ。
秀の態度にさほど怒った様子も文句を言う様子もなく作業を続ける級友たち。
女じゃあるまいし、誰かあの坊主になんとか言ったらどうなんだと、
櫻澤が彼の級友たちに訪ねると。
「秀はこの手の作業、滅多に参加しませんから」
さほどそのことが問題でもないように返事が返ってきた。
「だから?」
「張るわけないです」
「君たち、秀君と秀人君のテント張らされてるんだよ?」
「まぁ、俺たちのは張っちゃったし、アイツらこんなのできないだろうし、
二人というか秀がこういうところに出てきた事自体が珍しいから、
いいんじゃないんですか?」
「へー・・・・そう」
さらりと、さもありなんという具合でそう言われ、
それ以上櫻澤には返す言葉が見つからなかった。
こういうことはこの子たちの間では常習化しているようである。
タープの下では、車から運び出された寸胴鍋から漂う美味そうな香りがし、
秀人が土鍋の無洗米にミネラルウォーターを加え炊く準備をしている。
その傍らでは、級友の兄たちが簡易椅子に座りながら感嘆の声を上げていた。
「秀人君、これ君が作ったの?」
「祖母と一緒にですけど」
「レトルトじゃないよね?」
「カレー粉と小麦粉のルーから作りました。 おいしいですよ」
「おいしいですよ」の言葉になんのてらいもなければ
自慢するような嫌味も感じられない。
「秀人君、いいお婿さんになれるんじゃない?
なんなら僕の面倒みてよ」
堀兄の台詞に小宮山兄がここは笑うべきところなのか、
それともたしなめるべきところなのか考えているうちに、
自らが発散するスプレー臭に顔をしかめながら、
腕組みをした秀がやってきた。
「堀さんの冗談は時々笑えないセンスだからね」
ご機嫌も斜めのようである。
「秀君の虫嫌いも全く笑えないね」
テントを張り終え、汗だくになってやってきた櫻澤が笑いながら言うその台詞に、
誰もがある種の含みを感じ、秀のご機嫌斜めの斜傾度を更に鋭くさせた。
「俺たちより長く生きてる櫻澤さんには、
夏のキャンプはもうそろそろ体力的に厳しすぎて辛いですよね。
手伝おうと思ったんですけど、年甲斐もなくあまりにも楽しそうに
テント張りしてるように見えたもんですから。
あ、水分補給にどうぞ。
俺に出来るのはこれくらいでほっんと申し訳ないです」
「・・・・・秀君、君ねー」
紙コップになみなみ注がれたアイソトニック飲料を受け取りながら、
周りの視線にこのキャンプが有意義なものとなるかどうかの選択肢が
任されていることを感じ、櫻澤はぐっと煮え湯を呑み込んだ。
秀は秀人が次々と注いでは渡してくる紙コップを級友たちにも手渡す。
「悪かったね、ごめんね。 テント張ってくれてありがとう。
美味いカレーあるから遠慮なく食べてよ。
俺だって少しは作るの手伝ったんだ(鍋掻き回していただけ)」
秀の人間として当たり前なのにどこか高飛車な言動に、
級友達はこぞって感激の表情をした。
その有様を見て櫻澤は、
双子とその級友5人の不均衡な関係を一瞬にして把握した。
堀と小宮山二人の兄は、普段五月蠅いくらいに聞かされる
双子に対する我が弟たちの思い入れに苦笑するしかなかった。