何も無い、真っ白で四角い部屋の中で目が覚めた。
そして心配そうに僕の顔を覗き込む彼。
「目が覚めた?」
そう彼は優しく聞いた。
僕はそれに、わずかに頷くことしかできなかった。
しばらくして困ったことに気がついた。
僕には、僕を取り巻く全てのものが目に映らない。
彼を除いて。
そして、そんな彼なのに彼のことをあまり覚えていない。
それに、僕がどういう人間だったのかということも覚えていない。
そのことを彼に告げると、彼はとても驚いた表情をしたのだけど、
「すぐにきっと何もかも元通りになるよ」と優しく笑ってくれた。
次に目が覚めた時、
僕は以前とは自分が違う場所にいることに気がついた。
だって、何だか空気が違う。匂いも違う。
どちらかというと、前よりずっといい感じだった。
でも相変わらず、部屋の中は真っ白で何も無く、
僕は何も思い出せない。
不意に目の前に彼が現れて、昨日と同じように優しく笑って言った。
「ちょっと引越しをしたんだ。 君がなるべく早く元に戻れるようにね」
その日から、僕と彼の奇妙な生活が始まった。
ここにはトイレも風呂もあったし、食事もいつの間にか用意されている。
だから、僕は部屋から出なくても必要最低限の生活はすることができた。
そして、彼は朝、僕が目覚めるとすぐに部屋に入ってきた。
不思議なことに、
彼が部屋に入ってくる時だけ部屋の一部が切り取られ、そこに空間ができる。
彼はその空間からやってくるらしい。
そのことを彼に言うと彼は笑って、
「面白いね。 でも、本当はその空間というのは初めからあって、
それは外に繋がってるんだ」
と教えてくれた。
「一緒に行ってみない?」と言われたけれど、
「そんな気はない」と言うと、
彼はまた優しく笑って「いいよ」と答えた。
彼は僕の部屋に来ると、別に何をするのでもなく、
本を読んだり、何かメモを取ったり書いたり、そして、
僕と話をしたりして一日を過ごした。
僕と話をする時は、僕が昔どんなことをしていたのかとか、
彼とどんな話をしたのかとか、どんなところに行ったのかとか、
僕についていろいろと話をしてくれた。
けど、思い出せない。実感もない。
彼は、「いいよ。何回でも話すよ。そのうちに思い出せる
かもしれないしね」と言った。
彼は時々誰かと話をしたりしているようで、「変わらない」
とか、「俺は大丈夫」という会話は聞こえてくるものの、
誰と話しているのかは僕には分からないし、そんなの全く
興味もなかった。
そうして、夕方、いつの間にか運ばれてきた夕食を一緒に食べると、
彼は静かにお祈りをして、
自分の胸に下がっているロザリオに接吻けし、
僕にもそっと唇を寄せると、
「おやすみ、また明日」
と優しく言って、部屋の一部を切り取って外に出て行く。
何日かして僕は、「もう少し一緒にいてもいいのに」と思うよ
うになったけど、そのことは彼には言わなかった。
ある日僕は、最初からとても困っていたんだけど、
流石にこれは言えないと思っていたことを彼に言うことにした。
それは、彼と僕の名前が僕には覚えられないということだ。
それに付け加えるならもう一つ、
彼がよく言う少し長めのフレーズの言葉も、実を言うと覚えられない。
正確に言うと、聞こえてもすぐに忘れてしまう。
だから意味もよく分からない。
そのことを彼に伝えると、彼は初めて悲しそうな顔をして、
僕の頭を胸に抱きながら、
「ごめんね。 ごめんね」
と呟いた。
そういう彼の表情を見ていると、何だか胸がモヤモヤして、
僕はたまらなくなって彼に聞いた。
「君が何か僕に悪いことでもしたっていうの?」
すると彼は、何も言わないままとっても困った顔をしたので、
「そうじゃないならそんなこと言わないで。 何だかとっても
苦しくなるから」と僕は言った。
「優しいんだね、ありがとう」
と彼は言い、またあの言葉を僕に言う。
でも僕には届かない。
そう彼に伝えると、
「いいんだ、君に届くまで何度でも言うよ」
さっきよりかは嬉しそうな顔で言った。
彼は、僕が僕であったことを思い出させようと
いろんなことを試しているようだった。
ある日、彼は僕の前で煙草を吸ってみせた。
「吸う?」
と聞かれたんだけど、煙草の煙がとても煙たいし、目にも染みたので、
僕を忘れてしまった前の僕は、きっと煙草なんて吸わなかったんだろう。
だからいらないと彼に言うと、
彼は物すごく驚いた顔をしてしばらく声も出せなかったみたいだった。
それから、
「そっか、悪かったね。僕も身体のためにやめようと思って
いたんだ。丁度いいよ」
なんて苦虫を噛み潰したような顔をして言うので、僕は少し可笑しくなって笑った。
すると彼も今度は嬉しそうに笑ったので、
僕は少し自分の心が弾むのが分かり、
そんな自分を気持ちよく思っていることに気がついた。
音楽も聴かせてくれた。
でも、僕にはただの音の洪水としか感じない。
「五月蝿いから消して」とまで言ってしまった。
彼は口元に手をもって行き、何か考え込んでいる様子だった。
僕は、何だかとっても彼に悪いことをしたような気がした。